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まず、お詫びさせて頂きます。前回のブログに於いて、しかも1行目から、私、脱字してしまっておりまして(笑)ご指摘を頂き気付きました。

正しくは

「最近思ってる事を書きます。」でした。

自分を戒する、という意味で、問題の箇所は直さず、そのままにしておきたいと思います。

そして、その脱字を見る度に自分を恥じ、また、それを教訓とし、これまで以上に日本語を大切に、且つ、愛していきたいと、いうふうに思うのであります。


と、反省をした上で、また人の事について、とやかく言い始めるわけでございます。


前回の続きです。


昔は、警察、教師、記者や作家、評論家に科学者、宗教家…などの、一部の専門的な方達が、文字を使い、自己なり集団なりの考え方を書き記し、発表してた、と言えましょうか。

それに当てはまらない方々も当然、手紙くらいは書きますが、ごく個人に宛てられたものが殆どだったでしょう。あと思い付くのは…論文や研究書の類ですが、一般の生活をしている人には殆ど関わりのない世界です。


さて、時代は変わり、ご存知の通り、現在はPC、ネットの普及による、メール、HPやブログなるシステムが広まりました。

自分の日常を綴る日記風のものや、自身の思想や活動、理念や哲学について、また、応援や批判も含めたコミュニティ、宣伝、あと、僕もよく利用してるTwitter…などなど、今や文字を使わない日はありません。そして、パソコンのメールだけでなく、いつの間にか携帯電話に付帯されていた、メール機能はその役割に大きく貢献してるでしょう。
代わりに手紙が激減しました。きちんと調べたわけでは無いのですが、おそらく(笑)
(まだ僕の学生時代はラブレターがありましたが、今の告白は携帯のメールが多いようです)

僕は西村京太郎の「十津川警部シリーズ」のファンで、よく読むのですが、その作中、必ず出て来るのが、被害者宅を捜索した際に見付かる、手掛かりとしての“手紙”です。2000年に入って書かれた作品の中にも、必ずと言っていいほど手紙が部屋から出て来ますが、僕はいつもそれには違和感を覚えてしまいます。
あなたの部屋に、友人や知人、恋人や身内から来た手紙ってあります?

僕はたまたま音楽をやってるので、お客さんがくれる手紙がありますが、それ以外ウチには請求書くらいしか無いです。

(ちなみに、ウチには写真もほとんどありません)

今の時代、紙に書くという事って、何だか堅苦しいと言うか、杓子定規と言うか、融通が利かないと言うか、なんかイメージないですか。

契約、役所、法律、立法、答弁、会見、制度、制約、案件、起訴、裁判、罰金、逮捕…などと重苦しい連想をしてしまうのは僕だけでしょうか。

ほら、ほら、あなたも叩けば埃が出るんじゃないですか?

ま、ここはサラッと流していただき。

てなわけで

普段はメールで、大きな問題は文書で。

というのが、今のご時世なのではないでしょうか。

そして今や、誰もがアマチュア評論家であり、アマチュア物書きです。アマゾンのレビューなんて見てますと、純粋なファンが「ここが良かった、ここが今ひとつ」などの率直な感想を書いている中、非常にマニアックなレビューもあったりします。制作者サイドに立った意見からそれを取り巻く状況、果ては本人の心情にまで及び、しかもそれらは現状をよく把握した、真に迫るものであり「本人か?」と思わされる程の説得力があります。(ま、結局はその方もただのファンなんですが)
ただただ、個人が思った事を書き、しかも匿名性が高いので、時に辛辣に時に無情な内容で、それはネットを介して、不特定多数の人が見る。そしてこれが結構面白い文章だったりするんですよね。(そうじゃない人もいますが)


その多くの人達はフツーの方。しかしながら、隠れた文豪、文士がいるのです。

僕の父とメールするようになって、初めて知った事なんですが、僕の父は何だか、情緒のある文章を好む傾向が強い、という事を知りました。

作家志望が書きそうな文体である事がたまにあり、見てはいけない一面を垣間見たような「父親の、コンドームをつける際の、人とはちょっと違うこだわり」を知ったような、そんな複雑な気分にさせられます。

と、同時に「自分は確実にこの人の息子である」という事を痛感したのは言うまでもなく、このブログの内容からみても明らかです。



さて、そんな中(余談が多すぎて、どこの中なのか分かりませんが)最近、ネット上で書き込みをしている人の中で、ある一つの特徴がみられます。打たないのか、打てないのか、理由がどっちかは分かりませんが、句読点を使わないのです。

句、読点っ、てど、んな意、味があ、るん、だ、ろうテ、キトー、に打っと、けば良、いのかな?

ある質問サイトで「なるほど」と思った、良い例題を見つけましたので紹介しますね。

句読点を用いて、A、B、それぞれの文章を違う意味にして下さい、という問題です。

問:1

A:私は昨日父と母へのプレゼントを買いに行った。
B:私は昨日父と母へのプレゼントを買いに行った。

問:2

A:彼は笑いながら話す友人を見ていた。
B:彼は笑いながら話す友人を見ていた。

問3
A:きのう友人に借りたカメラをなくしてしまった。
B:きのう友人に借りたカメラをなくしてしまった。
回答は見てませんが、おそらく正解は次の通りだと思います。

問1
A:私は昨日父と、母へのプレゼントを買いに行った。
B:私は昨日、父と母へのプレゼントを買いに行った。

問2
A:彼は笑いながら、話す友人を見ていた。
B:彼は、笑いながら話す友人を見ていた。

問3
A:きのう、友人に借りたカメラを失くしてしまった。
B:きのう友人に借りたカメラを、なくしてしまった。

だと思います。間違ってたらコメント欄でご指摘下さい。

個人的には日本語のもつ面白さと、複雑さを再認識しました。

実は、正直に申しますと、僕は3問目が難しかったです(汗)

ちなみに3問目は句読点のつけ方ひとつで、カメラをなくした日時が変わるわけですね。

例えば「きのう」の日付を1月1日と仮定します。
Aは1月1日以前の、いつか分からない(文章からは特定出来ない)時期に、借りたカメラを1月1日になくし、Bは1月1日に借りたカメラを1月1日か1月2日になくした、って事だと思うんです。たぶん(笑)

日本語っていうのは難しいんです。
だって、日本語を問題にしてクイズ番組が出来るくらいですから。


さて。


文字というものを書いていますと、どこかの誰かの峰のように、間違えます。誰だって必ず間違えます。分かってるんです。僕も気を付けてるつもりですが…

「にんげんだもん」byみつを

でもね。誤字、脱字だらけでも「伝われば良いんだよ」みたいな風潮は嫌いです。

「彼女は大切なものを失い打ちひしがれている。私はそれを見てとても可愛そうに思った。」

って書いてたらそりゃ意味は分かるけど違和感を感じてしまいます。


本(ここで言う本の定義は“正しい日本語を使った作家が書き、原稿通りに出版された、正しい校正を経た書物”とします)を普段から読んでれば、文字や言葉の様式に対して、違和感を感じた時の敏感率が高くなる、と、僕は思うんです。

でも、こんな事言ってるとですね。

「伝われば別によくね?」
って言う人が出て来るんですよ。
別にね、そういう人を論破したいとは思わないです。

でもね。

でもね。

「そう思いたいヤツはそう思わせとけばいい」

みたいな考え方ってあるじゃないですか。

それって場合によっては黙認してる、ともとれるんですね。もっと言うと、容認、とも言いますか。

ちょっと話は逸れますが(後で必ず戻ります)


例えば気になってる人に「今度メシでも行かない?」とメールをしてですね、返ってきた返事が「今日は仕事忙しかった~。いつもよりお客さんがたくさん来てね。明日も忙しいけど頑張らないと!メールありがとう。おやすみ!」
だったとします。

ま、これは確実にスルーされてますよね。

そこでまあ「そうなんだ、お疲れ様!で、メシ行こうよ」なんて野暮な返事はせず、「大変だったね、お疲れ様!体、無理しないでね。明日も頑張ってね。おやすみ」くらいの無難なメールをしといて、この話は終わり、と(僕なら)します。

つまりこれは、断られたという事になり、相手の返事から察するに「忙しいから会えない」というより「ヒマでも会いたくない」という事になります。

これを言及せず、正しく理解し、受け入れるという事も容認、黙認、と言えるのではないでしょうか。

これ、とっても悲しいですね。

「涙枯れるまで 泣くほうがいい」

“贈る言葉”by海援隊


ちょっと、たとえ話をするつもりでしたが、あんまりたとえ話になってませんね。

ちょっとこのくだりは忘れて下さい。

だから何が言いたいかというとですね

言葉や漢字を間違ってても「伝わればよくね?」などと言ってるヤツにはですね、僕は徹底的に言ってやるわけですよ!


「食事に誘ったのにスルーしてんじゃねえっ、どん兵衛の麺みたいな髪型しやがって」

あ、…いや、そうじゃなくて…



つづく(またか)
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